たとえ分かり合えなくても、きっと助け合うことはできるよ

誰かと一緒にいて「寂しい」ときは…

 

分かり合えないって

どこかで感じてるからなんだと思うけど、

「分かり合えない」を、

ひとりで分かろうとするから寂しいんじゃないかな。

  

分かり合えないということ自体は、

わからなくてもよくない?w

言ってることわかる?

 

そっか、分かり合えなさそうだな…(終了)

で、よくない?w

 

その先を深めると、「寂しい」ってところまで行っちゃうんだと思うの。

 

簡単な話し、結局ね、

食べられないから「寂しい」んだと思うんだよね。

食べてから考えたら?

分かり合う必要まであるのかどうか。

 

食べるのには、

ひとりでなんとかしようとせずに、

あーん♡ってするんだよ、お互いにね。

 

分かり合えなくても、

助け合うことはできるよ、きっと。

 

お団子を食べるのには、

それで十分だったりするもんねw

 

で、そうこうしているうちに

お団子美味しかったねー♪とか言って盛り上がって

分かり合うための「きっかけ」が見つかったりすることだってある。

 

分かり合えるところまで

共通認識になるような

ポジティブな経験が一緒にできたらいいのかなって思うよ。

だからまず、一緒に食べる、みたいなことね。

 

分かり合えてるから一緒に食べるんじゃなくて、

分かり合いたいから一緒に食べる。

 

行動 → 認識 の順番だと上手くいくよ。

一緒に行動する前に、自分だけで考えすぎちゃうと

なんか勝手に寂しくなって

自分から距離を置いて、更に寂しくなるっていうループに陥るから。

 

分かり合えてはなくても、

助け合える可能性はあるんだから、

人を諦め距離を置くっていう手段は、

いろんな可能性を殺してしまう一番もったいないものな気がしない?

 

なんなら、

お団子食べてから距離を置いたらどうなの?www

 

 

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