愛という周波数でしか宇宙とリンクできない@誰かのメソッドでは入口までしか行けない

誰かのメソッドでの基礎学習から 現場で愛を表現する「ホンモノ」へと移行するタイミング

 

子育てとかと一緒だと思うんだけど、

子育ての教則本を見ながら

「ウチの子」を育てる。

 

最初はそれでいいんですよね、きっと

「愛する」がなんとなくわかるまでは。

 

ここで、教則本から離れて

自分流に応用、アレンジできるかどうかが

「ホンモノ」と「ニセモノ」に大きく別れる分岐点。

 

 

「ホンモノ」は、「ウチの子」を見てて

「ニセモノ」は、いつまでも教則本の方を見てる。

 

 

「ウチの子」から 生きた現場を学ぶからこそ

その子のままを愛することができる。

 

↑これは時間経過と共に

お互いの絆が深まるような

より深く大きな愛へと一緒に成長していけるやつ。

 

 

教則本という誰かのメソッドから離れられない人たちは、

現場・現実が、本の通りにいかないと

ウチの子の方を変えようとする。

どっかの知らないおじさん(著者)と、ウチの子の

どっちが大事(愛)なのかを見失う。

 

↑こっちは、時間経過と共に

お互いがすれ違い

本当の愛とも すれ違いだす。

(そりゃそうだよね、目の前に居てくれてる人よりも

どっかの知らないおじさんの方を愛そうとしてるんだから。…それ誰だよw)

 

やり進めるほどに苦しく、愛から遠ざかる「誰かのメソッド」という仮想現実の中の完璧。

 

 

楽しくなくなった時点で効力(エネルギー)を失うのがスピリチュアルの世界

 

自分の目の前の大事な人・こと・もの を見ていないと

その場での反応、ラリー、循環が起こらないから

孤独と消耗が進み、興味がなくなるように「その場」に飽きて

愛をすることが楽しくなくなっていく。

 

楽しくなくなった時点で

効力(エネルギー)を失っているから

「効かない」「意味ない」って勝手に判断しちゃう感じ。

 

これ、意味があるのか?

ただ疲れて寂しく悲しくなるだけじゃないのか?

報われる気配すらないのは、

「愛」や「創造」の真裏を感じているから。

☞ エネルギーを喪失するルート上にいるときのサインだね。

 

 

「愛」という周波数でしか

宇宙に入れないのに、

それが欠けてるなら

どんなメソッドを使ったとしても

宇宙と同調するとか

宇宙と一体化するなんてないじゃない?w

 

根本がわかってないのに

その先での能力の獲得とか進化なんてないよ。

 

これに気づいた人から

抜けられる仕組みになってるんだけど…

 

↓ っていう話し。



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あなたが、愛することを心から楽しめないと

せっかく愛をしてもらってる人も、それを素直に受け取れなかったりするから。

ほら、なんか恩着せがましくなったり

何かする前に(私も大変なんだけど)みたいなのを匂わせたくなったりするでしょ?w

 

せっかく「やっている」のに、

自分の満たされてない感のせいで

相手に渡すときに、自分で愛のクオリティーを落としてしまうの。

 

相手のために「愛をしよう!」って思った動機は「ホンモノ」

相手のために手をかけ時間をかけ「準備をした」ときに注いだ愛情も「ホンモノ」

準備が整ったときに「全部あげよう!」って思った心も「ホンモノ」

・・なのに、渡すときに気持ちよくあげられない

☞「ニセモノ」みたいに一気に価値が消滅

 

こんなの、悲しすぎるし、

心がダメージを負わないわけない。

愛をしたのにどうしてこうなるの・・って。

 

 

ちょっと考えてみて欲しいの。

あなたが囚われているのって、

あなた自身の「手落ち」や「過ち」からの「できなかった…」ではなくて

守るべきセオリーだと思い込んでいる「誰かのメソッド」ってことはない?

 

あなたが、その「誰かのメソッド」で賄える範囲から卒業しているレベルなら

学生から社会人へと身を移すように

生きるフィールドを変える時期に入ってる。

 

 

「ここで、教則本から離れて

自分流に応用、アレンジできるかどうかが

「ホンモノ」と「ニセモノ」に大きく別れる分岐点。

 

「ウチの子」から 生きた現場を学ぶからこそ

その子のままを愛することができる。」

 

あなたが素直に目の前の「現実」を愛することを楽しんだ分、

気持ちのいいやり取りとして愛が愛のまま循環するようになるよね。

あなたは、自分のした愛によって満たされるの。

たとえば、相手の心底満足した「にまにま」とかでねw

 

こうやって、あなたが愛に対して「開いた」分だけ

あなたは宇宙とリンクするから。

瞑想なんかは、かえって遠回りなんだよ。

現実の中での実践、相手がいるというレベルでの「愛」の方が

遥かに「高度な愛」を「実際に」自分の魂に刻めるんだもん。

 

 

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