自分で行動してる人にしか降りず使いこなせない「叡智」という名の愛。
叡智は愛でしか使えないもの
たとえ話ね。
自分でお掃除をやっている人に
「あー、それ大変でしょ。
30分ゴシゴシしてると腕が攣るよねw
いいのがあるよ!!
まず、これでシューーーってしておくの。
でね、30分待ってから拭き取ると
ほら!!こんなにツヤツヤにするっと磨けるの」
「うそぉぉぉーーーー!!!!
私毎回30分死ぬほど大変だったw」
↑ こういうのが叡智がもたらされた時のものに近い。
金太郎あめみたいに、どこを切っても「愛」なもの。
同じことを、自分ではお掃除せずに
メイドさんを雇っている人が聞いたらどうなると思う?
「うちのメイドは、それ使ってやってるのかしら?
まさか、無駄に30分も時間かけて磨いてるんじゃないでしょうね?」
・・・まぁ、こんなにいやらしくなかったとしても
うちのメイドにも教えなくては!!とはなるでしょ?
人間はどうしても「できていない」ことが気になるから。
この時点で、メイドさんを
自分よりも下に捉えてしまっているということがわかる?
親切心からのことだったとしても、
無意識に「下に認識してしまう」ということが付いてくる。
「教えてあげたい」んだもんね。
でね、これを聞いたメイドさんはどう反応すると思う?
「自分でやってもないくせに何言ってきてんの?
私がやってるんだから私のやりたいようにやらせてよ
私がいつもどれだけ必死でやってるのかも知らないくせに
口だけ出してくるとか本当にあり得ない!!」
あ~あ、愛だった叡智が
なんかもう全部台無しよねw
お互いにやっている(行動している)同士での受け取り方よりも
圧倒的に愛の度数が下がってしまうの。
行動していない人が叡智に絡んだだけでね。
自分ではやっていない(行動していない)人が、
自分が使う以上の叡智に触れたとしても
それは「愛」としての実りにはならない。
身の丈を越えた愛として持て余した場合、
「自分の代わりにやってくれている」ということの凄さに気づけず
その人に敬意も感謝も抱かずに
上から目線で聞きかじっただけの知識を披露(押し付け)しても
いつもやってくれている人(みんなのために動いてくれている人)に対して
とても失礼な
ただの嫌なやつにしかなれない。
いつもやってくれている(行動している)人は、
叡智にも近い「経験」という尊いものを既に持っている人だからね。
敬意を払うべきでしょ、その人が命を燃やして獲得した「経験」には。
だからこそ、メイドさんを尊重するべきなんだよね。
プロとしての経験を積んでいらっしゃるってことだから。
相手への感謝や敬意を欠き、
愛ではなくなった叡智は、
素直に「いつもありがとう!」って言えなくなるような
「余計な知識」として波動が堕ち、
相手を尊重できなくなる
尊大とか傲慢の種になってしまうの。
自分で行動してる人は
叡智を愛として使いこなせる
「それ」の大変さを身をもって知っているからこそ(←社会性的なね)
相手を尊重しながら、
どんな風に、どこまで言ってもいいのかがわかるんだよね。
どう寄り添ってあげたらいいのかがわかるの。
尊重してあげたいからこそ
手伝ってあげたい(共感)って思えるんだと思うの。
手伝う : 他人の仕事を助けて一緒に働く。
手助けをする。助力する。
出典:デジタル大辞泉
相手にマウントするための叡智なんてないよw
相手に感謝し、敬意を払うからこそ
思いやりの範疇で降り注ぐのが
「お手伝い」のための叡智なの。